ドダン・ブーファンのポトフ
  うなぎ料理の歴史



 うなぎは、古くは約5000年前の縄文遺跡の貝塚からうなぎの骨が出土しており、その他数々の貝塚からもうなぎの骨がが出土している事から、古くから日本人に馴染みのある魚と言えるだろう。
 うなぎが文献に初めて登場するのは、万葉集大伴家持吉田連老という人に、こんな歌を贈った。

 石麻呂に 吾れもの申す夏痩せに よしといふものぞ むなぎ(鰻)とり召せ (巻16−0853)

 大伴家持吉田連老が夏痩せしたのを笑い、うなぎを食べろと奨めている歌だ。他の文献によると、平安時代の貴族は、うなぎを白蒸しして、塩味で食べていたようだ。
 昔はうなぎをむなぎと呼んでいたが、これはうなぎの胸が黄色いからむなぎと呼ばれていたようだ。形が家の棟木(むなぎ)に似ているから、と言う説もある。12世紀頃からは、うなぎと呼ばれるようにはなって来たが、依然むなぎと言う呼び名も使われている。

 蒲焼きが最初に文献に登場するのは、応永6年(1399年)に著された鈴鹿家記で、ウナギを筒切りにして串にさして焼いて食べた形が、植物の蒲(がま)の穂に似ていることから、蒲焼きと呼ばれるようになったそうだ。
 ただし、蒲焼きの由来は他にも、うなぎを焼いたかんばしい香りが転化して、かんばや、香疾(かばや)、蒲焼きになったと言う説(ダジャレ?)、うなぎを焼いた色が樺(かば)の色に似ているからと言う説、蒲鉾から転じたと言う説もある。

 それから室町時代までは、うなぎは塩で食べたり、酢みそ、または辛子酢で食べられていた。室町時代末には、宇治丸と呼ばれる料理、ぶつ切りしたうなぎに、醤油や酒、山椒味噌で味付けした蒲焼きが登場する。
 宇治丸の名前の由来は、近江の宇治川のうなぎが美味だった事からだと言われる。

 現在のように、開いて、タレを付けて食べるようになったのは、18世紀頃から。そして天保年間(1781年〜1789年)に、千葉県銚子にある現在のヒゲタ醤油五代目当主田中玄蕃(げんば)が、濃い口醤油を作り出した。
 それまで、良い醤油は関西にから入って来たが、濃い口醤油が江戸の人の嗜好に合い、うなぎの蒲焼きを始め、寿司、天ぷらが爆発的に流行した。これがひいては、関西の薄味に対して、関東は濃い味と言う、料理文化になって行くのである。
 19世紀前半には、江戸前蒲焼き番付なるものがあり、秋葉原のうなぎ屋、神田川の創業が文化3年(1806年)で、その後西前頭13枚目にランクインしている。
 江戸前と言う表現も、元々うなぎに対して言われていた言葉で、それが江戸時代に登場した現在の寿司にも江戸前寿司と使われるようになり、現在では寿司に使われるのが一般的になっている。
 このうなぎに良く合う蒲焼きと言う料理法は、完成された19世紀前半から今に至るまで変わらず続いている。

 うな丼の発祥は、文化年間(1804年〜1817年)で、由来には諸説ある。
 ・明治18年(1885年)の宮川政運「俗事百工起源」には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助が始まりと書かれている。
  当時うなぎの蒲焼は、出前の際には冷めないように、暖めた糠(ぬか)で保温して配達された。
  大久保今助は、糠を取ってうなぎを食べるのが面倒だったので、ごはんの上に乗せるようにと注文したそうだ。
 ・安政5年(1857年)青葱堂冬圃の「真佐真のかつら」には・・・
  青葱堂冬圃の幼少時代、江戸の四谷伝馬町三河屋某の家に勤めていた男が、暇(ひま)をとった後、ふきや町の裏長屋でうな丼を売り始めた。
  珍しいとので、青葱堂冬圃は人といっしょに行ってみると、丼飯へ鰻の蒲焼をさしはさんだもので、わずか価格64文売っていた。
  男のうな丼は次第に繁昌し、皆まねて売ることになったが、価格は年を経て高価になった・・・と書かれている。
 ・天保年間(1830年〜1843年)に浜町河岸に出来た、大黒屋が始めたと言う説もある。

 文政5年(1822年)に書かれた、青山白峰の「明和誌」によると、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、エレキテルで有名な、平賀源内が発案したと書かれている。
 安永から天明年間(1772年〜1788年)に、平賀源内がひいきにしていたうなぎ屋から、夏枯れでうなぎが売れないと泣きつかれた。そこで「土用の丑の日、うなぎの日。食すれば夏負けすることなし」と言うキャッチコピーを考え、看板を立てたところ、大繁盛したとある。
 異説としては、天保10年(1839年)に書かれた「天保佳話」に、狂歌の大田蜀山人が考案したと言う事が書かれている。

 この時代のうな丼は、丼に盛ったごはんに、ただ蒲焼きが乗っているだけのもので、もっと冷めにくいようにと丼の蓋を乗せるようにしたのは、明治に入ってから。

 うな重が登場したのは更に後で、昭和35年(1960年)に、東京のうなぎ屋、重箱と言う店がうな重を始め、それが高級感があり、体裁が良いと言うので、他の店も真似するようになったとか。

 うなぎの調理法は、東西によって異なる。
 ・関東
 うなぎを他の魚と異なり、背中から裂く・・・いわゆる背開き。串打ち→白焼き(そのまま焼く)→白蒸し(せいろで蒸す)→タレをつけて焼く・・・と言う工程となる。
 ・関西
 腹開き。串打ち→白焼き(そのまま焼く)→タレをつけて焼く・・・と言う工程となる。白蒸ししない。この関西風調理法を別名地焼きと言う。
 この東西の境目は、愛知県岡崎市付近と言われている。

 昔も現在も、うなぎ料理を美味しく仕上げるのは、難しい。「串打ち三年、裂き八年、焼きは一生」と言われる。

田川にある大伴家持の和歌


Last Update 2004.11.23 Created by Majin